くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

【読書メモ】遠藤周作「沈黙」を読む

 

前回コロナにかかったレポを書いたからか、色々とスターをいただいてありがたい限りです。いただいたスターのお返しはしましたが、返せなかった方もいるので、ここでお礼申し上げます。

 

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仰々しく「書評」と題して投稿しようと思っていたけれど、後から見返していたら、これは「読書メモ」という方が正しいな、と思ったのでタイトルを変更した。もう少し自分の考えをまとめて書くというか、感じたことをぶつぎりではなくそのまま書けるようになったらいいのにな。

 

この本を読むことになったきっかけはひとまず横に置いておく。

この本は数年前、マーティン・スコセッシ監督のもとハリウッド映画化された作品だ。欧米における、「キリスト教文学」というジャンルにてきわめて日本的な文学でありながら、高い評価を得ている。

登場人物の大半は日本人であることから、映画もほぼ日本人俳優であったらしい。観てないから知らないが、結構な実力派やベテラン達が集まった、力のこもった映画だったようだ。

この本を読み進める中であまりにも感激し、うっかりGoogle検索してしまったところ、そんなベテラン俳優が、欧米メディアに取材を受けている記事を読んだ。

「日本においてもこのような悲惨な迫害があったことを忘れてはならない」と、その俳優は熱弁してインタビューは結ばれている。

 

そうだ、この国においても、くだらない宗教のためにたくさんの血が流れたことがある。思想の違い、信条の違い、そういったものによって起こされた争いは、西洋世界に限らず東洋に、そして日本においても存在した。

しかしだからなんなのだ。この俳優の言っていることは間違っている。少なくともこの作品や、それをもとにした作品に対しての感想としては間違っている。そんな頭で、よくもまぁインタビューを受けられたものだ。よほど、お勉強ができないのだろう。「思うことはひとそれぞれ」という言葉に括るのも、無理があるほど無知な俳優である。私は心底軽蔑する…。いや、もしかして、西洋世界で映画化されたこの本は、このような西洋的な価値観のもと、捻じ曲げられてしまったのだろうか。そして、この俳優もこのような感想を持たざるを得なかったのか…。

 

ただの「キリスト教が迫害されました」という本であるならば、遠藤周作という小説家がわざわざ筆を取ることはないはずだ。遠藤周作に限らず、小説家という人種は、内に秘める強い熱を発散するために、小説を書いていると見受けられることが多い。もっとこの本を読んで感じることはいくらでもある。そもそも、テーマ自体がひとつに限らないように思う。遠藤周作は、自分の思いの丈をひたすら書き綴っているように感じる。

 

師であるフェレイラの棄教の真実を知るため、高尚な想いを抱えて長崎に降り立ったロドリゴとガルペの目の前には、重税を課され、信仰の機会を奪われて苦しんでいる信徒たちが、信仰を心の支えに生きている。当初はこそこそとキリスト教の教えを語るロドリゴであったが、そんな中にも卑怯者がひとり。それが、愚かで惨めなキチジローである。腹立たしいほど卑怯な人間であり、ある意味では愚かな笑い者でもある。ロドリゴはそんな彼に裏切られて投獄され、棄教か死かを選ぶ。
物語の中では、たくさんの日本人信徒が殺される。殺され方も酷いもので、衰弱死や溺死など、ロドリゴの前で悲惨な死を迎えていく。ロドリゴと共に海を渡って日本までやってきたガルペも、海に落とされる日本人信徒のために海へ沈み、命を散らした。
こうした現実がロドリゴの目の前にあるにもかかわらず、神は救いをもたらさない。

そのような現実を前に、ロドリゴは自らの信仰と向き合うこととなる。

 

神とは何か。神は、信じる者を救ってくれる存在であるのか。


ロドリゴはガルペのような気概も持たず、ただ短い間とはいえともにあった日本人信徒と同郷の士が死にゆくのを見届ける。過去に疑問に思っていた、しかし考えてまではこなかった疑問が、ロドリゴの頭の片隅で浮かび上がる。

 

この国におけるキリスト教とは、宗教とは何か。正しさとは、何か。

 

ロドリゴも疑問に思っていた部分であるが、日本におけるキリスト教は、また異形の信仰である。「人を超越したものを理解しない」日本人には、神は人型であり、仏教徒が数珠を欲しがるように聖職者のロザリオを欲しがっては、神社のお守りのように大切にする。ポルトガルから来た聖職者にとってはまた違った宗教に見えるはずである。

この時代は16世紀ヨーロッパの宗教改革プロテスタントが発生してからそう時間は経っていない。カトリックイエズス会所属聖職者からしては、広い意味で日本のキリスト教プロテスタントに近い存在にあたるだろう。正しい信仰を押し付け合い、その教えを広めるため、あるいはビジネスのために多くのヨーロッパ諸国が世界各所へ羽ばたいていた17世紀。聖職者でありポルトガルから来日したロドリゴは、この土着宗教を許すことはできない立場にある。

しかし、目の前には困窮し疲弊しきった、同じキリスト教を信仰するらしい日本人信徒が救いを求めている。その上で、キリスト教とは、正しさとは何か。なぜ神は沈黙し続けるのか。この信徒たちを信徒と認め、手を差し伸べるべきか。
ロドリゴには、必ずしも一つの正解が見えていたわけではない。フェレイラとの対談を経て、地獄の時間を経て最終的に下した判断は、沈黙し続ける神に背き目の前で苦しむ人を救う決断だった。

 

ロドリゴの選択は過ちなのか。彼は、本当に神に背く者であるのか。

 

作中には頻繁にキリストの13番目の弟子、裏切りの「ユダ」が出てくる。キチジローはこのユダに準えられ、キチジローのみっともない姿を見るロドリゴは、いつもその姿にユダを重ねる。みっともない卑怯者たるキチジローも、全くの悪人なんぞではない。その弱さには、元々の心根もあるが、迫害を受けた自分と家族たちの経験から見据えた人生観や生き方というものがある。キチジローだってキリシタンとして、苦しみから救って欲しかったはずである。過去を振り返ってみれば、キリシタンというだけで迫害され、苦しみながら日々を細々と生きていくことしかできないのに、強さというものをものを持てる人間は、それなりの素質がある人間だ。信仰を続けることの苦しみ、恐怖、それに耐え切ることができない弱い人間であるといったって、彼が苦しまなかったことはない。

 

少し話はずれていくが、2011年の東日本大震災のとき、宗教なんかに何ができたのだろう、と思う。せいぜいお坊さんや神父さんなどがボランティアをするくらいだ。しかしそれも、事が起こった後の話。
数万人が犠牲になった自然災害であるが、その犠牲者や生き残った被災者の中にも、仏教やキリスト教、その他の神を信仰する者がいただろう。しかし彼らに、宗教がどのような救いをもたらすことができたのか。心の安らぎなど、そういった面では救われるかもしれないが、「もっと生きていたい」「以前の暮らしを取り戻したい」という思いの人々にとっては、救いというものは訪れなかったと同義だ。

本当に神や仏が救ってくれるのなら、わざわざ死後の世界なんかで幸せに、苦労なく過ごせるようになどと説き伏せることはないだろう。辛いのは現実世界においてであり、しかもこちらが一方的に信じてばかりいるだけで、あちらは何もしてくれないのに、信仰心を継続することなんて不可能に近い。

ロドリゴもキチジローも、この長崎で生きている間、信仰の意味を見出せなかったはずだ。神はずっと、直接の救いを与えてはくださらなかったのだから。

 

しかし棄教後にロドリゴの元を訪れたキチジローとの問答は印象的なものだった。告悔を聞いてもらえなかったキチジローは怒ったようだが、そこでロドリゴは解を得た。ロドリゴはこの国で最後のキリシタン司祭である。今までの、そしてこれからのその生き様は、誇りのために生きるそれである。ロドリゴキリシタンとしてやってはならないことをした。ただし、ロドリゴは信仰を捨てたわけではない。ある意味で官僚主義的な組織のあるイエズス会からは破門されただろうが、それ以前に彼はキリシタンなのである。キリシタンだからカトリックプロテスタントの宗派やら教会やらに属さないという必要はなく、彼がキリシタンという自覚を持ち、信仰を続けているのならキリシタンである。神に背いてなどいない。

ロドリゴの人生は無価値ではなく、神のために生き続けることにこそ意義がある。信じるものを見失ってしまいそうになる弱い心も、さまざまな経験や想いからキチジローのように強くなる。また、キリスト教の根付かないこの国において、それでもなお心の奥底からキリシタンとして生きるロドリゴの存在というものは、この国の、いるのかいないのかすらわからない惨めな日本人信徒の光であると思う。日本人信徒たちにとってのキリスト教というものが変化したとしても、長崎の孤島に生きる隠れキリシタンたちが夢見たパライソを壊さなかったように、この国で生きる信徒たちのためにもあるように感じる。キリストに自らを重ねたロドリゴは不遜な存在に思われるが、ここから始まるのだ。

 

キリスト教徒であった筆者の信仰とはまさにこれなのであろうと、綺麗に集約される本であった。