くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

【読書メモ】「東京都同情塔」を読んだ

九段理江さん著、新潮社から刊行されている「東京都同情塔」。

つい先日、芥川賞に決定した。X(旧・Twitter)をみていると、「しをかくうま」が業界人から結構好評だった印象で、今回ノミネートされた作品の中でもこれが優勢なのかな、と思っていたけれど。やはり、でしたね。

最近ブログを書くのにかなり精力使っており、時間も足りないので、昨日さっと読んだ感想をさっと書こうと思います。

あまりあれこれ考えて書いてもしかたないかな、と。

 

序盤の読みにくさが異常。これは前回芥川賞受賞の「ハンチバック」の際にも少しあった感想なのですが、全体的に文章が硬くて、序盤で断念してしまいそうなほど。ただし、読み進めると少し楽になるというか、慣れてきます。

ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることに。犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の預言の書。

これは新潮社の紹介文ですが、「フロウ」と書かれてしまうと、あくまでもわたしの中の言葉の定義では「なんか違くない?」と思ってしまったりする。こう、ラップのそれっていうイメージがあるので、正しさという観点で言えば間違いではないのですが、「フロウ」という言葉と、この小説に秘められる言葉との間では、自分の中の感触のようなものがちょっぴり手触り違うなと。

「95%は人間の手で、5%はAIで」書かれたというこの小説ですが、その95%の人間部分でも、どことなく無機質な感じが抜けません。この作家さんの持ち味なのか、主人公の女性の語り口と思考回路がまさにそんな感じだからなのか。曖昧なものをより確実なものとするように主人公は話します。その一方で、「表現すべきではない」言葉は、一度彼女の中で呑み込まれ、彼女の声から音として発される言葉は、より柔らかいものへと変換されます。これは彼女だけの特徴ではなく、その近隣に住まう人々でさえも、時を経るほどそのように変換されてゆきます。みんながみんな、当たり障りのない言葉しか発することができません。幸福でいなければならぬ「塔」に住まう人は、さらに言葉というものを持たなくなります。

 

彼女自身も、あるいは彼女に言及する大衆たちも、みなそれぞれが持つ限りの言葉で攻撃対象を塗り固めていきます。自分にとってはそれまで関心を持っていなかったことなのに、まるで大義名分があるかのように自身が被害者などの弱者たる当事者であるとアピールし、「反対だ」「正しくない」と叫び、自らの正しさをあの手この手で補強する。これは現代で起こっている現象そのもので、ネット掲示板やX(旧Twitter)を確認すれば、すぐわかるはず。

言葉は鋭利。それを、現代人は認識していないからこそ傷つけてしまう。わたしはそう思ったことがあります。

自分の目の前に、画面の向こう側に、顔の見えないだれかがいるという意識が、この世の中には抜けている。だから傷つけてしまうし、理解できない。しかしその一方で、傷ついている人さえも他者に不寛容になり、まただれかを傷つける。

そんな世の中だったからでしょうか。この小説の中の人々は、言うべきではない言葉を検閲し、正しいとされる言葉で塗り固め、正しくなければ内にしまい込む。そして時を経て価値観は変化し、その価値観で、過去の人々をその時正しいとされる言葉で上から塗り固めて定義する。これらは分かりあうことができず、まるでそこにバベルの塔が建てられたかのように、分断が生まれてゆく…。

小説内では、今まで話題にすらあげられず、興味すら持たれなかった刑務者に、福利厚生を与えられることになりました。日本の人々はそれに反対しました。今まではなんとも思っていなかったくせに。自分の目の範囲外に置いていたくせに…。こういった世界に生まれる矛盾はさまざまあり、この小説ではそれらを皮肉るけれど、だからといってその矛盾を正したものや、正しさに塗り固められた世の中が正解ではない…。

 

果たして、その言葉は、この世界は本物なのでしょうか。正しいとされるもの、それに即して表される言葉、それは正しく人を、感情を、思想を描いているのか。