くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

きになる記事


この記事、書きたいことが多いままにあとまわしにしてしまって。結局なに書きたいんだかわかんなくなっちゃいました。
最近wezzyというサイトを読んでいます。フェミニズム関連の話題が非常に多く、その手の類に興味ある人は必見のサイト。共感できる記事もあればできない記事もあり、たくさんの経験や意見を掘り起こしてくれるのでいいと思います。

まずはこれ。

『奥様は、取り扱い注意』『監獄のお姫さま』……「フェミニズム的な話は世間に受けない」はウソ

 めちゃ古いわ。わたしはドラマを基本観ません。だからそういうドラマがあったんだな、となんとなく参考に。
なかでもちらりとしか記述されていないけれど、「逃げ恥」はかなりヒットしたドラマだよね~~。漫画は読んだことあるんだけど‼‼逃げ恥は各サイトでも、女性に対してエールを送るようなメッセージが強いとか。見とけばよかったかな。
まぁそんなわたしなので、ゆりちゃんの問題のシーンは映像では知りませんが、よーくわかる。

中学生のころくらいからかな、年をとることに嫌悪感を覚えるという声を聞くようになったのは。そんなことを言うのはおもに女の子だった。ただ単に「働きたくないからずーっと小学生でいたいな‼‼」みたいな可愛い妄言ではなかった。「20歳超えたらババアじゃん。このまま年を取りたくない、10代から年を取りたくない」……そんなことを言う小学3年生の女の子に会ったのは、18歳のころだった。
わたしもずっとそう思っていた。20歳なんて大人っぽくて、中学生や高校生には程遠い存在だった。18歳になって、高校を卒業してから、わたしはついに大人になってしまうのだと身に染みて感じた。でもそれまでは20歳なんて本当に遠い存在で、わたしはいつまでも10代でいるのだという気持ちだった。まぁそんなこともなかったけど。
10代のわたしは、中学生から高校生、大学生になってもずっと、ほんのり心の中では思っていた。20代はともかくとして、30歳になったらどうなるんだろうなぁ、なんて。自分が年を取って大人になっていくなんて想像もつかなかった。ちいさいころはすこし頑張るだけでも褒められて、風船ももらえて、キャラクターもののグッズを買っても変だよなんて言われなくて、それとおんなじことがまた起こるだけなのに、20歳、30歳と年を重ねる自分が想像できなかった。そして、年を取ることをずっと嫌っていた。
母親にせよ学校の先生にせよ、身の回りの人々にせよ、みーんな同じことを言うのだ。「まだ若いうちに」なんて言うのだ。実際そうだとしても、そのあとに続く言葉はけして「こうしなさい」という人生指南じゃない。「結婚しなさい」「子供を産みなさい」そういったことばかり、ずっと言われていた。そしてまるで結婚できない人は恥ずかしいかのように、「行き遅れにだけはなるな」と言う。
そういったことが繰り返されるにつれ、わたしもそういう価値観がめばえてしまったんだと思う。男性と結婚すれば、それで人生のゴールにたどり着くのだと思い込んでいた。男性に選ばれることが女性の幸せなんだと、そうやって教えられ、育てられていたから。同じようなことは周囲の人間も同じ。結婚して家庭に入ること、つまり男性に選ばれることが女性の幸せなんだってすりこみされている女の子が多いと感じる。そのために、女は若いほうがいいんだと、若く、肌にもハリツヤがある状態がいいんだという空気になっているのだろう。男性はそういう女性を好むから、という理由だけで。

若さは女の価値じゃない。ドラマでも、現実でもよく言われるものです。それでも「若さ」を手に入れようとする女性はたくさんいる。そうして、若さを持たない女性を見下す。でもそれは本当に正しい価値観として成り立つのかな。若いことが取り柄なんて人は、20~30歳以降はどうやって生きていくの??しんじゃうの??自分が本当に若さを求める理由がそれなりにスジの通ったものならわかるけれど、なにも答えられないようじゃおしまいだ。ただ、若い時だけを楽しむために生きてきたという感じ。30歳までが若いとすれば、30~80歳はどうやって過ごすのだろうか。
自分の取り柄、アイデンティティ、そういったものは若さじゃ補えないはずだ。いつまでたっても色あせない魅力、目標、そんなものさえあればいいのに。自分より年下の可愛くて若い女の子なんていっぱいいる。なにもひとりってだけじゃない。そんな年下の若い女の子といつまでも戦えるかと言ったら、ノーに決まっている。若さを強みにするよりも、もっと他の生来のものや努力のたまものといったものを自分のアピールポイントにするべきである。いつか失われるものを、自分の魅力にカウントしてはダメだ。ゆりちゃんはそんな趣旨のことを言っていた。


あとはこっち。

ダルちゃん、インテグレート……「女性の抑圧」を描く作品のモヤモヤ分岐点は”誰に何を語らせるか”

ダルちゃん、すきじゃない……。
男性に誘われ、「わたしは女としてあの人に勝ったのだ」そう感じたダルちゃんだが、彼女は結局、なんとかという男に負けている。彼の非常識な態度を愛想笑いでやり過ごすことで、彼女は彼に負けてしまったのだ。
なんとなくわかる……うまく言えないけれどわかる。かりに軽くセクハラされたとする。「かるいからいっか」で流していては思い通りなのだ。きちんとそこで反論するようにならなければ、彼女は男性のつくりだす男性のための社会を受け入れ、男性に対する女性としてふるまうことになる。これをよしとする人間はいるだろう。でも、フェミニズム的にはこれはダメだと思われる。セクハラを受け入れ、男性に対する女性となることがなぜいけないのか、と考えると難しい。でもまず第一なのは、男女と言った属性以前に人間であるからだと思う。男性と女性は必ずしも同じ目で異性を見ない。「なにがセクハラなのか」なんて男女で違うだろう。性的なことをされ、どこまでが嫌なラインなのかというのは、男女どころか人によってとらえ方が違う。この「嫌なライン」をなぁなぁにごまかしてはいけないのだ。だってそれは「わたしは意思がありませぇん」という表示なのだから。そうやってなぁなぁにすることは、自分自身を他人に預けることと同じ意味を持つだろう。
話はセクハラが主軸ではないので論点がずれてしまった。しかしそんなわけで、相手の振る舞いを愛想笑いで濁したダルちゃんみたいな女性は、相手の支配に入ってしまったということになる。明確に拒否の意思を見せなかったおかげで、「こいつはここまでやってもいい」「こいつはここまで言っても怒らない」という相手の判断に従ってしまった。自分の主導権を相手に握られたも同然だろう。これは負け以外のなにものでもなく、自分を苦しめる一手だ。
人間はだれしも意思を持つし、こだわりを持つ。嫌なことは絶対に嫌だし、侮辱されたら最高に悔しいのが人間であるはずだ。「それは嫌だ」という意思を持ち続けなければ、いつか本当にうすっぺらくて軽い女性になってしまう。でも世の中にはそうやって自分自身を低く低く下げて、極力あたりさわりないように乗り切ろうとする女性が多い。そうやって女性としての身分を低くし続けている。これは問題だろう。