くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

8月読書本の書き散らし

 

今日は3連休の最終日。そんなわけですので、少々足を伸ばしてみたり。

土曜日配信されたばかりの日経WOMANに、「休息の取り方」といった記事が載っており、それに触発されてしまったためだ。お散歩って、このコロナ禍流行っているらしいけどわたしはしたことなかったんだよね。

なんとなく今日は朝陽を見たくて、早朝の散歩をしたくて、そんな気持ちで2km先のスターバックスまで歩いてみた。

 

朝5時に目が覚めたがすでに陽は昇っており、あーあ、やらかしちゃったとそのままうだうだ。その後7時半になり、身支度を整えて家を出て、お散歩出発。

 


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朝なので涼しいかと思ったら、そうでもなかったね!
程よく暑くて、汗かいちゃった。そこそこ人も多くて、朝でも活動している人多いな〜って思った。
わたしはこの街に引っ越してきて数年経つけれど、なんとなく自分の生活圏から出たことがないので、近所ではあるものの新鮮な気持ちでお散歩できたかな。

 

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30分程度歩いて、スタバへ。そこそこ空いてた感じ。ティーラテ頼んで、落ち着く。
ここで何しようとかちっとも考えてなかったのだけど、本を読むことにした。

 

読んだのは、これ。少し特別な本。

 

 本を読む場所は基本選ぶことはないけれど、この本だけはなんとなく選んだ。

100ページ程度の短い小説で、すぐ読めるかと思えば、難解な言葉選びによりあまりすらすらとは読めずじまい。閉店間際の美容院で読んだらとっても眠くなってしまい、3日くらい放置していた。何度も何度もページをめくり、戻りながら、ちょっとずつ読み進めた。
普段雑誌しか読まないタイプの人間なので、正直とっても苦労した。一度手からこぼした本なんてそうそう読まなくなってしまうけれど、それでも本屋さんで初めて表紙を見て、「読みたい」と思った本だけあって、また手に取った。

2011年3月11日のことはいまだによく覚えているし、忘れない。東北地方の人間ではなくても、関東の片田舎の中学生だったわたしは、生まれて初めての大きな地震と恐怖を経験した。単純に大きな地震だったというだけであれば、この地震はただそれだけのものだ。しかしこの地震によって失われたものは、計り知れないほど大きい。それまでの常識が全てひっくり返され、日常が奪われ、自分はもう生きていけないのではないか、と本気で心配した出来事でもあった。今のコロナ禍のように。

2020年に世界を包むコロナ禍において、主人公の前にふらりと現れたこの世の人間ではない者、野宮。彼は主人公の大学の同窓で、2011年の東日本大震災にて海に呑まれたまま行方しれずになっていた人だ。時間の縫い目がわからない街、ドイツのゲッティンゲンにて、主人公や周囲の人々の記憶が溶け合い、流れていく。2011年当時東北にて被災した主人公は、あれから必死に生活を立て直した。亡くなった人は、行方不明になった人は、あの出来事をきっかけに何かを失い、何かを置き去りにした人は、もう還ることができない。何も還らず、時間がすぎて、遠い記憶になって、忘れられてゆく。

野宮の象徴たる記憶の持物(アトリビュート)は貝殻であり、それはお守りだという。海の近くで育った野宮は、家族でホタテを食べることがよくあった。その意味もあるし、彼にとっての道標という意味もある。聖ヤコブの象徴、ホタテの貝殻は、サンチャゴ巡礼に身につけられるものであるが、ホタテが巡礼に用いられるようになった一説のうちに、「海に落ちた騎士が聖ヤコブに祈ったところ命を救われ、海から上がったその姿にはホタテがびっしりついていた」というものがあるようだ。ルチアやアガータもだが、野宮と聖ヤコブはこのようにして繋がれている。
野宮にとって、海は特別なものなのであろう。空の青、海の青、それは主人公が当初想像していたような夜明け前の淀んだ青ではなくて、勇ましい絵画の中の穏やかな静の青。主人公にとって、海は遠かった。津波を映像でしかみなかった人間は、海を恐れ、黒い濁流を認識した。しかしそんな人間には野宮の青の視点を持ち合わせないし、それを痛みの記憶だと認識し、自分自身とあの出来事の記憶を曖昧にする。

天体の知識も絵画の知識も文学の知識もないながら、頑張って読んだな、と思う。さまざまな記憶の声が重なるドイツの街で、主人公たちは各々の痛みの記憶を辿る。この小説は、紹介文によれば「鎮魂の物語」だそうだ。主人公たちは確かにそれぞれの痛みの記憶を抱え、その記憶の持物を手に、巡礼していく。


筆者は宮城県生まれの東北大学大学院出身とのこと。今はドイツに住んでいるそうだ。どういう情緒でこの小説を描いたのか見当つかないが、絵画のような小説だと思う。描写が丁寧、とだけいってしまうとちょっと違うかもしれないけれど、語り手の感じたことがそのまま表され、不思議な世界観が作り出される。あれから10年も経つ。震災のことは、記憶の小石にさらされ徐々に失われる一方だ。記憶には確かに残っているのに、どう表せばいいのか、思い出せばいいのか、よくわからない。そうしてあの日の記憶は、街の下に埋もれていく。

 

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ところで、失われた街の上に立つ街にも過ぎ去った時間があり、見えない声があるというシチュ、とっっても好きです。この世界観、好き。ありがとう。