くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」について

 

学生時代、Primeに加入したばかりのころ「アップサイドダウン 重力の恋人」という映画を観て、ブログでも記事にしました。世界観とか映像美が好きで、わりと個人的には高評価なのですが、レビューではSF好きや映画評論家まがいの人から酷評されていました。悲しい気持ちになったものの、その気持ちは高評価判定をしたわたしでもなんとなくわかるものではありました。ありがちで予想のつく展開、薄い中身、伝えたいことが伝わらない、ご都合主義。映画ファンとかが嫌いそうな要素のオンパレード。そりゃそうなるかな、とは思いましたよね。

 

んで、今回やってる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」もそのようなコンテンツだと思うのよね。正直なこと書くと、主人公の設定もどこかの漫画にありそうだし、展開も読めやすいし、どちらかといえばご都合主義。テレビアニメはそうでもないけど映画はひとつの映像に伝えたいことがたくさんあって、すこしごちゃついている感じも出てきていたような。

 

でも、やっぱり好きなんです。

 

世界観もそうだけど、映像美もそうだけど、とにかく美しいから。

人の悪意がなくて、ひどく悲しいけれど温かくて、主人公も周囲のみんなも敏感にいろいろなことを感じ取って成長して、紆余曲折せずまっすぐに物語が終わるところがとても好きなんだと思う。

 

今回は暇だったのもあって、お買い物ついでにちょっと観に行きました。あんまり期待していなかったけれど、とても良かったので適当に感想を書きます。本当に適当すぎて言いたいことがゴロゴロしてます。

 

 

ヴァイオレットはユリスとの会話で、ギルベルトに会ったら「あいしてる、が少しわかるようになったと伝えたい」というようなことを言っていたけど、ユリスに「それだけ?」と返されて何も言えなくなってました。ヴァイオレットのこれまでの冒険を見ていたら、ヴァイオレットが伝えるべき想いはそれではなくて、ちゃんと「あいしてる」と返してあげなければならないとわかるはずです。ヴァイオレット自身、そこまで感情面が成長していないのかもしれないけど、伝えたい言葉を伝えられない時点で素直になれていないのといっしょ。たくさんの人の想いを描いてきたのに、自分の気持ちはまだまだ伝えられないままでした。そもそもこのときギルベルトも生死不明だけどね。

ヴァイオレットにそんな疑問の言葉を投げかけたユリスの最期にて、ドールは無力でした。手紙を代筆するまでにはいかず、電話を使うしかありませんでした。戦争が終わって何年も経って、世の中は変わっていくし、アニメで一緒にいたみんなも別々の人生を歩み始めているシーンも出てきています。ユリスのシーンは悲しいシーンであると同時に、堰き止められない世の中の濁流を表すシーンでもありました。

しかし、どれだけ年月が経っても、その間に周りも世の中も変わっても、人のいのちがなくなっても、想いは変わらず残っています。でもその想いを伝えるのはけっこう難しくて、自分の近くにあるうちに、生きているうちに言えないこともある。ユリスも、ヴァイオレットも、ギルベルトも、今まで出会ったたくさんの人々も。それなら自分がなんとかなるうちに、素直になったらいいし、ならなくちゃいけない。後悔しないように、きちんと伝えなければならない。「あいしてる」という言葉も、まっすぐに。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の映画は場面転換がかなり多いのでごちゃついている印象が出てきてしまうんだけど、今回は時間軸もズレ始めました。洋画よりかはわかりやすいしいいんだけど、シンプル・イズ・ベストが信条のわたしとしては「うへぇ」とは思いましたね。でも結局、これでとても良かったです。というのも、今作は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の最後の物語であるから。この映画によって、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはひとつの人生を終え、新たな人生を歩み、今まで紡いだものをあとにつないでいくことができたとしっかりわかるようになっているのです。

人の優しさや愛情に触れて変わり始めたヴァイオレットのお話は、ここで終わり。これからはどこにでもいる、だれかの人生になります。

素朴で飾り気ない幸せがそこにありました。

 

 

今回映画を観てて、ヴァイオレットの仕事にすごく親近感(?)を持ってしまったのでそのことも書きたかったけど、今回はやめとく。きりがないからね!