くだまきあーと

擬似よっぱらいOLがくだをまく、余生の日記。

かぐや姫の物語の記事


またもWEZZYから記事を引用するんやで。

すっかり忘れていましたが、本日はかぐや姫の物語ですってね。
好きな映画です、本当に好きな映画です。

穏やかに流れつつも激しい物語でしたっけ。なんていったけなぁ、抑揚のない単調なストーリーと言ってしまえばそれまでで、退屈と言われてしまえばまったくもってその通り。事実好きとはいえそんなに苛烈な印象を植え付けられたわけじゃないからちゃんと覚えてはいないのです。
でもね、一緒に観に行った友達とはへんに感動して、「よかったね、この映画。すごくよかったよね」と感想をぶつけ合うほどにはずどんときました。それまでただ映像美を楽しみ、ストーリーは自分の知っているものしかないという状況が続いていたのに、かぐや姫が育て親を忘れ天に昇ってゆく、ラストの顔アップシーンでつい、涙がぽろりとね。音楽もよくて、そんなこともあって友達と泣いてた。

そんな映画がノーカット。見ない選択肢はない。ここ最近ゴールデンカムイにはまってちゃんと見てるし、見ないわけがない。火垂るの墓は見そびれているが。

んで、このタイミングで更新されたWEZZYの記事に、宇垣アナウンサーの新解釈について考察するものがあって読んだ。宇垣アナウンサーの言葉自体はもっと前のものらしいけれど、あぁ、そういう解釈もありか、わたしたちは罪と罰にばかり注目していたけれど、そういうところも要点のひとつだったな、と気づかされた。いや、その重要な要点こそが罪と罰につながるのだが、無意識深層心理(?)って怖いね。

自然と戯れ、自然と生きるかぐや姫。いつまでもかわらない幼馴染のお兄さん。かぐや姫の憧れた地球人ってきっと、現代人であるわたしたちからすれば、そんな素朴で無欲な、とってすてても誰も構わないものだったはずだ。「わたしらしくいきる」というのが彼女の夢見た暮らしだった。
でも現実はそうじゃない。翁は彼女のためにといって、彼女を都へ連れて行く。都へいき、身分の高くてお金持ちの男性と結婚することこそ彼女の幸せと信じていた。現代社会のわたしたちもそういうところがある。お金がある暮らしを幸せと信じて、素敵な男性と結婚することを幸せと信じて、見栄を張って生きていくことばかり良しとする。それは決して「わたしらしくいきる」ことには当てはまらない。たとえ帝のように、すべてのものを手に入れた人間と結婚できるとしても、自分の意思がともなわなければ意味がない。ここまでは一般的な話の範疇だ。ここまではわたしも理解できている。

宇垣アナウンサーはフェミニズム視点でこの映画をとらえる。「まぁこの時代だし」と見てこなかった細かいところに気づかされた。
「女の子だからこういうことしちゃダメでしょう」とは、幼少期に限らず誰もが言われたはず。当時は気にしなかった、けれど大人になってよく考えると、この言葉はずいぶんと重みがある。
「女の子だから」はその人の人生の理由付けにはならない。「女の子だから頭よくってもね」は今でこそ明確な差別と認識されるが、「女の子だからアニメ見てはだめ」「女の子だからゲームなんて男っぽい、やめなさい」「女の子だから家族の御給仕をしてあげなさい」というのは未だにあやふやな範囲である。前二つはわたし世代ではそうでもないが、親世代では平然と口に出す。これはどれもわたしが言われた言葉だ。どう考えても、おかしいでしょう。アニメもゲームもわたしの趣味だ。これは否定されるいわれはない。それと同じく、少女漫画やぬいぐるみが好きな男の子も、好きなのであれば否定されてはならない。だって好きなんですもんね。
「御給仕をしなさい」は本当に謎である。そんなん個人でやればいいじゃないか。ご飯が炊きあがったことぐらいわかるだろう。ご飯をどうやって食べるのか、わからない人なんかいない。でもわたしは、こういうことをよく任されていた。皿洗いも、お風呂を沸かすのも、母がいないときはわたしだった。兄の分も皿を洗うことについて、母に「嫌だ」といった。自分のものは自分で片せばいい、まとめて洗ったほうが効率的というならば、なにもわたしに頼む必要はないじゃないか、と。でも母は「女の子だから」としか言ってくれなかった。そんなことは理由じゃない。わたしはずっと納得できていない。兄は自分でマックやロッテリアでご飯を買ってきて、食べ終わったらごみをすべて放置する人なのだが、まずそういうことを兄がやって誰がおこられるかというと、わたしだ。こういうことも、「女の子だから」やらなきゃいけないそうだ。

かぐや姫はほかにも、あれがあると指摘されている。あれだ。「容姿評価」。
可愛いだけで、美人ってだけで判断される、というのは地獄である。美人であろうと不美人であろうと本当に地獄である。
知らない男性たちに「あの人美人かなぁ」「ブスかなぁ」とうわさされてうれしいと思うか。いい評価だったとしても嬉しいと思うか。ブスの場合は勝手に落胆されるのだ。美人だとしてもうざったい話なのだ。だってまだ知り合ってすらいないのだから。かりにブスならどうか。美人ならどうか。それによってお付き合いしたいかを考えるんだろうが、だからといって見ず知らずの女性を勝手に品定めするのはありえない。それに、なにも外見だけじゃないのだ。外見は変えられない。だから本来そこを受け止めて他を評価してほしいのに、だれも外面ばかり。美人もそれはそうで、外見なんて衰えてゆくもので儚いし、そこだけ評価されても意味がない。中身を評価してもらったほうが嬉しいだろう。



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